高島易断とは

高島易断について

太古の昔より中国では人間が天と地の恵の間でいかに生きるかが模索され、統計立てて考えられ易として発展しました。それを元に江戸時代末期から明治にかけて、横浜発展に尽力した高島 嘉右衛門(たかしま かえもん )、易号は呑象(どんしょう)が、天文学と自然のあらゆる摂理から人の運と生き方を導く学問とも言える易断による占いとして集大成したものが高島易断です。嘉右衛門は、維新のの元勲や時の大臣を占い、ことごとく言い当てたことも一因でしょうか、"易聖"と呼ばれています。

追記

高島 嘉右衛門(たかしま かえもん 1832年12月24日(天保3年11月3日) - 1914年(大正3年)10月16日)は横浜の実業家および易断家。父は遠州屋嘉衛門(本姓は薬師寺)。母は「くに」。姉が2人。弟に高島徳右衛門。幼名は清三郎。後に嘉衛門、嘉右衛門に改名。号は呑象(どんしょう)。以下、嘉右衛門を使用する。

明治初期に横浜港の埋め立て事業を手がけたことで横浜の発展に寄与しており、「横浜の父」あるいは吉田勘兵衛、苅部清兵衛らとともに「横浜三名士」ともいわれる。その業績は高島町という地名にも残っている。
嘉右衛門は、実業家としても有名だが、易断による占いでも特に有名で、今でも「易聖」と呼ばれている。

1860年に貨幣密売の罪で入獄したとき(1873年にも入牢している)、牢内の古畳の間から易経が出てきたため、易経を暗誦できるまで読みふけり、紙縒りを作って筮竹として占った。この出来事がきっかけとなり、普段の生活の中でも卦を立てていた。1876年(明治9年)の隠棲後は易の研究をおこない、易占に関する講義や著述を行う。易断の集大成ともいえる著作『高島易断』は漢訳され、袁世凱、李鴻章など清の知識人たちにも贈られた。また彼は、易を一種の宗教ととらえていたから、人を使ってこれを英訳させたうえアメリカ・シカゴで開催された「世界宗教大会」に提出させた。1885年には「神易堂」を建設し、孔子祭を行なった西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文の死期の卦までも立てたといわれている。特に伊藤の時に立てた卦は艮が重なる艮為山で、重艮が安重根を指しているとして、暗殺者の人名も当てたとされている。しかし伊藤の死を予見しながらも、伊藤の決意を翻すことができなかったことから、これ以後、他人を占うことはなかった。
また自らの死期を予知し、生前に既に死期を記した位牌も持っていたとされ、その予知通りに死去。墓所は赤穂浪士の墓所でもある泉岳寺。戒名は「大観院神易呑象居士」呑象の号は、勝海舟から号を持ってはどうかと勧められて「どうしよう」→「どんしよう」という語呂合わせで付けられたという伝説がある。これは呑象の号の使用を黙認された小玉卯太郎が語った話とのことで、かなり信憑性が高い。

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